・演技について→1、演技について・はじめに→演技とは、嘘をつくことではない。

演技について書き始めるに当たって、まず、演技とは何かという点に触れます。
恐らく多くの人が誤解していることだと思いますが、演技とは嘘をつくことではありません。哀しくもないのに泣くのは演技とは言わないということです。

「棒読み」という言葉があります。
台本などに書いてある台詞を、抑揚のないまま声に出す読み方です。
演技初心者がよくやりますが、普段棒読みで喋っている人はまずいません。

にも関わらず棒読みになってしまうのは、演技というものをそもそも勘違いしているからです。
ある意味そういう人は「棒読みを演じている」ということになりますが。


「演技とは、役の感情になりきることだ」

とよく言います。この言葉を刷り込まれた人たちは「なんだか恥ずかしい」という感じを持ちます。
全く別人のふりをして喋るなんてできそうにないから、いっそのこと「私はできませんよ」という逃げとして棒読みが存在します。あと、難しく考えすぎて棒読みになってしまう人もいます。


断言します。
「演技とは、役の感情になりきること」ではありません。

まず役があって、そこに自分を持っていくというのは嘘です。間違いです。
そんなことをしようとするとたちまち「自分」と「役」のギャップに違和感を感じます。その違和感が羞恥心などに繋がって、演技をしたくないという気持ちに繋がるのです。


では演技とは何か。
哀しくもないのに泣くのは演技ではない、というなら何が演技なのか。

答えは「哀しい気持ちに自分を持っていって泣く」のが演技です。


「なんだ同じじゃないか」と思うかもしれませんが、違います。
例えばここに花子という女性の役があるとします。恋人に振られて、哀しくて哀しくて涙を流す役です。

あなたが女性で、花子を演じるとします。
「花子になろう」と思い、気持ちを知ろうとして考えて考え抜いて「花子は恋人を大切に思っていた。だから失って哀しい。哀しいと自然に涙が落ちる」と言葉で結論を出したとします。
そして、花子になって涙を流します。それは、花子の涙でしょうか?

違います。あなたの涙です。
花子に感情移入して泣いたに過ぎません。花子の気持ちを理解しようとして泣くことは演技ではないのです。


演技とは、花子になろうとすることではないのです。自分を花子にする必要はありません。
花子を、自分にすれば良いのです。

例えば、あなたには恋人を失った経験はありません。が、友達だと思って飼っていた犬が死んでしまった経験があります。
その感情を思い返して、その感情に自分を持っていって花子の言葉を吐き出します。

「あたし、あいつがいなかったら生きていけない。これからどうしたらいいの?」


これが演技です。
自分ではない誰かになろうとするのではなく、自分の中にある何かを活かすのを演技と言います。
こういうのを「役を自分の中に引きずり込む」とか「役を自分に落とす」と言います(余談ですが、私はこの表現を使うといつも、イタコやシャーマンのことを思い出します)。

「役の感情になりきること」という言葉は言葉自体間違いではありませんが、こう言うとなんだか「日常の自分と切り離して役になりきる」という意味に取れます。
そうではなく、日常の自分の一部をクローズアップして一つのキャラクターにするのです。それが、演技です。

日常の自分と切り離して一から役を作ろうとすると、棒読みになります。
どう喋ったらいいのか解らないから、とりあえず棒読みなのです。
最初からうまい人は、日常の自分と切り離さないで台詞を読みます。そういう人は初心者でも、下手くそでも「生きた台詞」が吐けるのです。

あと、日常の自分を知らない人、自覚できない人も棒読みになることがあります。
自分の一部をクローズアップすると書きましたが、言い換えれば自分を把握できている分だけ演技のバリエーションが増えるのです。ただ完全に己を知っている人間なんていません。新しい演技を探すということは、自分の中に眠っている可能性を、素養を探し出すということと同じです。
バリエーション多彩な役者は、より多くの部分、自分を解っている人のことだと言えます。


「演技は自分にある一部をクローズアップしてキャラクター化すること」
この前提で、これから演技について書いていきます。